小学一年生、もう一つの壁?横並び教育の弊害

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小学校1年生になった娘は、学校から帰ってくるとその日に起こった様々な出来事を私に話してくれます。

幼稚園の頃よりはずいぶんおしゃべりが上達したとはいえ、まだまだ語彙も少なくその話ぶりは拙いものです。

ある日のこと。
学校から帰ってきた娘は、その日起こった悲しかったことを話してくれました。

涙をぽろり、ぽろりとこぼしながら。

学校での出来事

体育の授業は、クラス対抗のドッジボールをしたそうで___。
内野にいた娘はボールを当てられて外野に出ました。外野には、すでに男の子が3人と女の子がひとり。

発端はこの女の子、ここで事件が起こったのです。
運動神経の優れたその女の子は、飛んできたボール、転がってきたボールを素早く捕球することができました。常にボールは彼女の独占状態で、その試合が終わるまで娘と3人の男の子はボールに触ることができませんでした。

ボールに触れることさえできない娘と男の子たちは『ボールを私(僕)にも投げさせて』と、何度かその女の子に言いました。

その提案に対して、彼女は『ボールは早い者勝ちだから!』と終始応じることはありませんでした。

娘のクラスは試合には勝ったそうですが、それ以上に非常に辛く悲しく悔しい思いをしたようでした。

理想と現実

平等にボールに触れる機会があるべきと考えた娘。

ボールはキャッチした人だけが手にすることができるというクラスメイトの女の子。

実力至上のスポーツの世界なら、ボールは確かに獲った人のものに違いありません。
ただ、これは小学1年生の体育の授業。協調性を養い、体力向上の計るという意味では、ボールを投げる機会は等しく与えられるべきとも言えます。

理想と現実。

これは先生の目が届かないところで起こった出来事だということですが、もしも先生がその場にいて、事の顛末を把握していたとしたらどうでしょうか。

こういったシーンでの定められた指導方針があるのかどうかわかりませんが、おそらくは個人の裁量によるところが大きいのではないでしょうか。

小学1年生からみた先生は絶対的存在であり、正義そのもの。

ボールを独占する女の子に対して、先生がどのような態度で、どのような言葉で接するか、他の子ども達はその一挙手一投足を見ています。

先生がチャンスの分配を行えば行うほど、少しずつ横並び意識は植え付けられてゆき、実社会とのギャップはひらいてゆくということ。

皆が等しくチャンスを与えられるのが理想の社会なら、チャンスを与えられることさえない人が大勢いるのが現実社会。
こうして理想と現実のすり合わせを経験していくのかと、はっとさせられました。

様々な〝壁〟

日本社会全体から見ると、小学校教育というものはほんの小さなコミュニティー。

この国ではほぼ全ての人が小学生として6年間そのコミュニティーに属し、ほんの一握りの人が教員として再び所属し、一定数の人が親となり保護者という形で関わります。

幼稚園では、個々の心身の発達の程度に合わせた(合わせざるをえない)、一人一人に…とまではいかないものの個性に合わせた多様な教育が与えられたような印象でした。

一方、小学校では学業でも生活面でも全員を一定程度のレベルまで集団教育しなければならない厳しさを感じます。自分が子どもだった時代に比べればずいぶん寛容に見えますが…。

この寛容さと厳しさの違いに見えない壁を感じる子どもは少なくないのではないでしょうか。

加えて、理想と現実のギャップという名の新しい〝壁〟の建設も絶賛進行中ときたものです。

生まれてから小学校に入学するまでの成長を振り返れば、驚異的・感動的ですらありますが、まだまだ小さな我が子。

逞しく育ってくれることを願うばかりです。

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